9.11の記憶
私は、2000年3月から3年半の間、米国で暮らしていました。
米国で過ごした約1250日の中で、一番強く私の脳に刻まれた朝の記憶が9.11の朝なんです。
私たち家族が住んでいたのは、カリフォルニア州クパチーノ。Appleの本社がある町で、公立学校のレベルは、全米トップクラスの地域。それなりのボリュームの宿題が出され、ちゃんと宿題をやって提出することが欠かせない毎日でした。そんな現地の小学校生活の中で、1日だけ、娘が出された宿題のシートを机の中に入れたまま忘れて帰ってきてしまった日がありました。
家に帰ってきてからそのことに気づいたのですが、時すでに遅し、教室には鍵がかかっていて入れません。で、仕方なく、次の日は、朝、早起きして、急ぎ学校に宿題を取りにいって、宿題をやらせて、遅れないように学校に送っていく、という普段とは全く異なる朝を過ごしていました。たまたま、夫も、その日はサンフランシスコに出張のため、いつもより早く家を出ていました。
夫から電話がかかってきたのは、子供たちを学校に送り届けて、家に一度帰ってきて、出社するために身支度をしていた時でした。逼迫した声で、「ニュースを見たか?」と聞かれ、「テレビを付けて見た方がいい」と言われて目に飛び込んできたのが、一生忘れることのできない、ワールドトレードセンターから黒い煙が出ているあの映像でした。
午前8時46分、アメリカン航空11便が北棟に激突したニュースが流れた直後だったと思います。そして、午前9時3分には、ユナイテッド航空が南棟に激突。いつもならばニュースをチェックするために朝、テレビを付けていたのですが、たまたま、その朝だけは、子どもの宿題に気を取られてテレビをつけていなかったので、まさか、こんな事が国内で起きていたとは夢にも思いませんでした。何が起こったのか、事情が掴めない中で、映像に衝撃を受け、恐らくアクセスが多くて輻輳していたのだと思いますが、いつもなら直ぐに立ち上がるCNNのサイトが、その時ばかりは一向に表示されず、一人家でパソコンの前に立って恐怖を感じたことも強く記憶に残っています。
正直、恐怖で身体が震えました。心を落ち着かせて、とりあえず急ぎ出社。
でも、出社した直後に起こったのが、午前9時37分、アメリカン航空がワシントン郊外にある国防総省(ペンタゴン)の西壁に突入、そして、午前10時3分、ユナイテッド航空の墜落。その日は、学校も早く閉じることになり、子供たちを迎えに早めに帰宅しました。
ニューヨークから離れたカリフォルニアとはいえ、ハイジャックに使われた4機が、いずれもサンフランシスコやロサンゼルスなどの西海岸に向かう便だったことで、西海岸でも非常事態となりました。次はシリコンバレーがターゲットになるという噂もまことしやかに流れ、連日放映されるワールドトレードセンターの映像が西海岸の人々に与えた影響もとても大きなものがありました。大人の私でさえ、ワールドトレードセンターから人が落ちる映像は忘れることはできません。子供たちのメンタル面に対するケアも学校のカウンセラーを中心に行われました。幸い家の子供たちはカウンセラーにお世話になる必要が生じるまでの影響は出なかったのですが、子どもによって影響度合いが異なっていましたので、学校にトレーニングを受けた専門のカウンセラーがいることの重要性をこの時も強く感じました。
ところで、10年後の2011年に発生した3.11。発生したその時、私は、武蔵中原にある富士通の川崎工場の23階建てのビルの13階で、モバイルフォン事業本部の会議に出席していました。本部の拠点がある仙台オフィスも含めたオンライン会議を行っている最中に、ビルが円を描くように丸く揺れ始め、仙台オフィスの画面が遮断され、ビルの窓からは、火災が発生したのか煙が見えたことを覚えています。ただ、一番怖かったのは、エレベータが止まったビルの各階から降りる人で込み合う階段を下りている最中にワールドトレードセンターの映像が急に頭の中によみがえり、このまま生きてビルから出られないのではないかと強い恐怖に襲われた時でした。
10年の時を経て、同じ11日に起こった二つの出来事が私の中で不思議な形で繋がってしまった瞬間でした。強い鼓動を感じながら降りた階段。無事にビルから地上に出ることができ、いつもの見慣れた景色を見た時は、本当に嬉しかったです。その日は、結局自宅に帰れず、川崎工場のオフィスの自席で朝まで過ごしました。
毎日を穏やかに過ごせている今を、私は本当に幸せだと感じます。
kaoru.chujo@sowinsight.com (中条 薫)